
11月23日、麗らかな小春日和の夜に母が93歳で逝きました。御世話になった老人ホームで介護の方にも見守られながら安らかな最期でした。葬儀を執り行った12月1日は雨模様で、見頃を迎えた庭の山茶花に見送られるように旅立ちました。多くの弔問の方々にご焼香をいただき感謝に堪えません。
(母を見送った山茶花)

(例年になく早く咲いた庭の水仙)

晩年の母は、豊かな趣味を持ち人生を楽しんでいたように思います。菜園での畑仕事、編み物、旅行、ヨガなど一生懸命打ち込んでいた姿が思い起こされます。特にヨガは88歳までヨガ教室に通い最長老でシンボル的存在だったようです。長生きの秘訣はそんなところにあるようです。
(母の部屋から見えるツワブキ)

父は48歳にしてこの世を去りましたので半世紀以上を経ています。あの世で老いた母と再会し驚くのではないかと心配しています。
一句 母逝きて 山茶花濡らす 涙雨
(お世話になったホームから望む太平洋)

「いわき万本桜プロジェクト」では、11月23日(日)桜の植栽した山林を会場にして「第2回いわき万本桜冒険ラリー」を開催しました。当日は小春日和に恵まれ約90名が2500mのコースに挑みました。
(開会式の様子 後ろにツリーハウス)

イベント広場で開会式が行われた後、参加者は小学生が中心で3~5人でチームを作り1分おきにスタートしました。家族連れが中心だったようですが、地元の平六小の先生に付き添われたチームもあったようです。先生に話を伺ってみると、近くに大変良い施設ができて自然に親しむ機会が増え、子供たちの健全育成に繋がっているということでした。
(元気に坂道を上る家族チーム)

子供たちは渡されている地図を頼りに、山道を冒険気分を味わいながら進みますと、チェックポイントに差し掛かります。そこでボランティアの「山姥」から課題やクイズが出されます。それをクリアしながら進み時間を競うわけです。山道は多少のスリルはありますが数日前からボランティアによって整備されていますので安全です。ゴールにたどり着くとつきたて餅が振る舞われ子供たちは大喜びでした。自然と一体化した楽しい1日となったようです。
(「山姥」の課題を待つ子供たち)

この地域の里山は、私達の少年時代は絶好の遊び場で「探検ごっこ」などをしたものです。その後、燃料革命によって雑木の需要は減り、建築用の松・杉材も外国産に押されてしまいます。そうすると里山も荒廃してしまい、子供たちも立ち入らないエリアとなってしまったのです。
(仙人ゆるキャラと記念撮影をする高校生ボランティア)

「いわき万本桜プロジェクト」は違った視点から里山の再生を図る企画だと思います。原発事故の負の遺産を払しょくして神谷(かべや)地区の里山が未来の子供たちに夢を伝えるものになれば素晴らしいことだと思います。
福島県で唯一の国宝指定を受けている、いわき市内郷の白水阿弥陀堂のライトアップが11月8日(土)から16日(日)までの9日間行われました。お堂の周りの大イチョウとモミジの紅葉がちょうど見ごろを迎えていましたので良いタイミングだったようです。
(ライトアップされた大イチョウ)

開催団体は白水阿弥陀堂ライトアップ実行委員会ですが、地元の商工会議所の有志らが当たったようです。私も実行委員会の湯沢君に誘われ15日(土)に行ってみました。週末とあって大変な混みようで、駐車場にたどり着くまで一苦労です。ライトアップは太陽光発電からの蓄電充電によりLED電球を使用して行う省エネに心掛けた企画だったようです。
(ライトアップされた白水阿弥陀堂)

参道には実行委員会が地元の食材で作った産品の販売所を設置されました。ライトアップの古道の散策を終えた人たちで賑わっていました。特に、地元のそば打ち名人が時間を切って振る舞った手打ちそばには人気が集中したようです。
私は地元ですので白水阿弥陀堂には何度か訪れていますが、夜の訪問は初めてです。ライトアップされたお堂とモミジの朱、それに大イチョウの黄が見事に調和し幻想的な世界を創出しています。それに堂内の阿弥陀如来像、観世音菩薩像、勢至菩薩像にも照明が当てられ厳かに浮かび上がっています。住職の説明を聴きながらしばし俗世を離れた気分になりました。
(訪問者で賑わう夜の阿弥陀堂)

阿弥陀堂は、この地の豪族である岩城則道の妻となった藤原基衡の娘・徳姫が郷里の平泉にある金色堂にならって建立したと伝えられ、浄土教建築としては日本有数です。また、平泉の毛越寺と観自在王院の園池に習った浄土庭園も、平安時代の面影を残して貴重です。池中の石組、玉石敷きの洲浜、中島に架けられた橋の朱塗りの欄干など、当時の貴族の生活を彷彿とさせます。
(蓮池のイルミネーション)

このような地元の貴重な歴史的建造物に興味を持つ人は、残念ながらそう多くはありません。紅葉の季節に行われる白水阿弥陀堂ライトアップのイベントは、歴史に興味を持たない人に対しても、違った視点から地元の歴史遺産に気付かせる良い機会であったようです。
東日本大震災から3年半が経過しいわき市内の復興も大分進んでいます。しかし、仮設住宅は依然として閉鎖することなく不便な生活を強いているようです。そのような中、市内の各所に建設されている1513戸の災害公営住宅は今年中にはほぼ半数が入居可能になるようです。
(急ピッチで進む防潮堤の工事)

市内でも最大規模の豊間地区の災害公営住宅も入居が始まり引越しをする風景が見られます。私の知り合いもこの住宅に決め、近々入居の予定のようです。彼の話によると、現在住んでいる借り上げ住宅は便利なところにあるため、豊間に越した場合買い物などに不便を感じるだろうと話しています。
豊間・薄磯地区の被災者の多くは平・中央台の比較的便利な場所の仮設住宅などに住んでいますので便利さに慣れてしまったようです。新しい住宅が確保されても、人が暮らすうえでは周辺環境が大切です。子供の通う学校、高齢者が利用する病院や福祉施設などの利便性が毎日の生活には欠かせません。
(入居が開始した豊間地区の災害公営住宅)

震災前の豊間・薄磯地区はそれほど大きな集落ではありませんでしたが、生活をする上で不便さを感じない機能が備わっていたのです。津波で住宅はおろかそれらの全ての機能が失われてしまいましたので、住むところが完成したから戻れるかというと、そう単純には行かないわけです。
「住めば都」と言われ、住んでいるところに愛着を持つのは人の世の習いでしょうが、便利なことに慣れてしまうと後戻りできないのも人情です。市内に建設されている16箇所の災害公営住宅は当然立地条件が違うのは当然です。一番人気は、いわき市平北白土にあるものだそうです。ここは旧公立学校の教職員住宅があった場所で大変便利です。ここなら、通学・医療・ショピングはもとより夜のネオン街にも近いのですから住みたくなるのは当然でしょう。
(一番人気の平白土の災害公営住宅)

豊間地区では高台移転の工事もスタートしました。しかし、いわき市が示す復興ビジョンに賛成する人はほぼ半分です。経済的な負担が伴うわけですので無理のない話です。福島民友新聞のインタビューに答えた薄磯地区の区長は「孫の代の先まで安心して暮らせなきゃだめだ。何百年後に生まれる人に津波の恐ろしさを味わってほしくない」と語っていました。行政も住民も長期的なスパンに立ってどうあるべきかを考えることが肝要でしょう。
(高台移転工事がスタートした豊間の山林)

タシュムシュ村での3泊4日の滞在はあっという間に過ぎてしまいました。10月5日、アビディンさん達もイスタンブールに戻りますので家中を片付け、昼過ぎにマラティアに向けて出発しました。運転はネムルート山行きでもお世話になったアリフさんです。所要時間は約2時間、午後2時に町の中心にある空港行きのバスターミナルに到着です。イスタンブール行きの飛行機は深夜便(午前0時20分発)ですので大分時間があります。
(アビディン宅5階からの眺望)

マラティアは紀元前に栄えたヒッタイト帝国時代からの歴史を持つ街です。遺跡を見学するほどの時間はありませんでしたが、アビディンさんがこの町に住む叔父さんを訪ねると言うので一緒に市内を散策しました。叔父さんの家までお邪魔し、夕食まで御馳走になってしまいちょっと恐縮しました。
(美人の店員さんのいるドライフルーツ店)

マラティアは果物の産地です。特にアプリコット(杏子)が有名で世界に出回る半分以上がマラティア産と言われています。アプリコットの他にもイチジク・ザクロ・クリ・クルミなどを産しマラティアは果物大国と言ったところです。街にはドライフルーツを売る店が目を引きます。イスタンブールのエジプシャンバザールの中にもマラティア物産店がありドライフルーツが山積みされています。季節的にはクリやザクロが食べごろですので、街のあちこちに焼き栗やザクロジュースを売る屋台が出ています。
(エジプシャンバザール内のマラティア物産店)

(ザクロジュースを売る店 イスタンブール新市街で)

街中の賑わいはイスラム教の祭(クルバンバイラム)のせいだそうです。これと言って催しが行われている様子はないのですが、そぞろ歩きをする人達が目を引きます。日本人は珍しいようで多くの人が振り返ります。驚いたのは、祭りの期間中は市内を走るバスが無料で乗れるのです。イスラム教徒でない日本人3人組も恩恵にあずかりました。
(イスタンブール行き深夜便)

空港までのシャトルバスは無料とは行きませんでしたが、無事空港にたどり着きイスタンブール行き深夜便に乗り込みました。イスタンブールのソリッソホテルに着いたのは午前2時、顔なじみのスタッフが笑顔で「お帰りなさい」と迎えてくれます。マラティアへの旅は終わりを告げました。
10月4日、タシュムシュ村の散策とシロ川での魚とりの予定です。
アビディンさんの話によると、今日から4日間はイスラム教の祭(クルバンバイラム)ということです。この祭りは、神に生贄を捧げる宗教行事です。動物を買うことのできる金銭的余裕のある家では、牛や羊などを購入し、肉の一部を貧しい人に配るのだそうです。明後日はイスタンブールの家で購入した牛肉をご馳走になることになっています。
(採りたてのハチミツ)

アビディンさん達は、早朝より近所の人たちとペティルゲの街にあるモスクに出かけましたので、日本人3人組は留守番です。全員が戻ったところでガーデン朝食を頂きました。ヘルシーな食材もさることながら、採りたてのハチミツをチャイに入れと飲むのは絶品です。
(放牧の羊の群れに遭遇)

午前中は近くの山へのトレッキングです。片道1時間かけて頂上へ、澄み切った青空とおいしい空気、アナトリアの高原は平和そのものです。帰り道に隣家を訪問すると、取り立ての山葡萄で歓迎してくれました。ご主人の話では、私たちが「この村を訪問した最初の日本人」ではないかということでした。お土産でも持ってくれば良かったと思いましたが、後の祭りです。
(甘い山葡萄)

昼食は日本から持参したカップヌードルなどで済ませましたが、ここでちょっと問題発生です。カップヌードルに豚肉成分は入っているかどうかのチェックです。勿論、入っているものは日本人、入っていないものはトルコ人が食べることになります。昼食をそそくさと済ませ魚とりに出発です。
(投網を打つヴェダット君)

場所は村を流れるユーフラテス川の支流のシロ川です。そんなに簡単に魚が獲れるのか、と思っていましたが、獲れるのです。川に到着すると、一足先に投網で獲っていたヴェダット君はすでにバケツ一杯の釣果です。日本なら差し詰め漁業権は、と問われるところでしょうが心配はないようです。
(大漁の魚とり)

魚のさばき方は私が得意です。皆さんに手ほどきしながら、大きいものは三枚おろしオリーブオイルで焼きワイン片手に頂きました。大自然の中で食べるユーフラテス川の魚は思い出に残る味でした。余談ながら、トルコ人の3人はイスラムの祭中とあってワインを口にすることはありません。敬虔な仏教徒(?)の日本人3人は、魚を殺生しながらワインでほろ酔い気分になっているのです。敬虔なイスラム教徒の方の目には、どのように映ったのでしょうか。ちょっと不安です。
(ユーフラテス川の魚の味は格別)

平成26年産米の「天のつぶ」を使用した新酒「神谷(かべや)」の仕込みが、10月4日9時30分から郡山市の渡辺酒造で行われました。「ふるさとマルシェ」でも関係者を派遣し立ち合いました。
(渡辺酒蔵で行われた「神谷」の仕込み作業)

杜氏を兼ねる渡辺社長の吟醸酒「神谷」の仕込みへの思いは一入です。というのも、今年は「神谷」の使用米が神谷産「日本晴」から福島県の奨励米神谷産「天のつぶ」に変わります。また、初年度の「神谷」が良い出来で、予想以上の売れ行きだっただけに新酒への期待は大きいものがあるからです。
(蒸した神谷米「天のつぶ」の撹拌作業)

日本酒はコメを発酵させて作られる醸造酒であることは知るところですが、その作り方についてはあまり知られていないようです。
仕込みは予め麹と水に酵母を添加してあるタンクに、蒸した白米を加える作業です。「神谷」に使用する白米は精米歩合を60%にした「天のつぶ」です。一般の食用にする場合の精米歩合は90%程度ですので、相当磨いた米の芯の部分を使うのが吟醸酒・大吟醸酒の特色です。磨いた「天のつぶ」は胴割れをすることなく大変良い状態です。
(精米歩合60%に磨いた「天のつぶ」 右 )

このような過程で仕込まれた「もろみ」は、綿密な温度管理のもとで酵母の増殖を促していくわけですが、これがそれぞれの蔵元の秘伝と言われるところでしょう。以前、渡辺社長は「酒造りは子育てと同じで、厳しい条件のもとで醸造することが大切」と語ったことがあります。「もろみ」は、これから約20日間、厳しい低温の下でじっくりと育てられるのです。仕込まれた「神谷」約5000㍑は、12月の2週目には瓶詰めとなります。
(渡辺社長の指導で「もろみ」を混ぜ合わせる木村さん)

「ふるさとマルシェ」では12月下旬(20日頃)に新酒の発売開始をする予定で準備を進めています。福島県奨励米神谷産「天のつぶ」使用、二代目「神谷」をご期待ください。
10月3日、世界遺産ネムルート山に行く予定です。
6時半起床、ガーデン朝食です。ハルマキ風チーズロール・菜園で採れたトマト・炭火で焼いたピーマン・オリーブの実・近所の養蜂家より分けてもらったハチミツなど健康食品でテーブルが賑わいます。それにチャイ、日本のお茶のように何杯も飲みます。
(アビディン家から見た朝の風景 放牧に移動する羊の群れ)

午前中は家の周辺を散策して過ごし、午後ネムルート山に向かいました。運転は近所に住むアリフさんです。目的地までは約60Km、2時間くらいの山道のドライブです。周辺の景色は雄大です。雨が少ないためか、疎らに灌木が生えた台地が果てしなく続いています。
(ネムルート山に向かう道路)

途中、地域の人が使うマーケットに立ち寄ると、店頭でお年寄りの人たちがチャイを飲みながら世間話をしているようです。毛色の違う私たちに興味がある様子、多分「何処から来たの?」と聞いたようなので、「ジャポヌム」だと答えました。日本人に会うのは初めてらしく歓迎の様子です。
(記念撮影 全員トルコ人?)

ネムルート山は標高2150mあり周囲の山より一段と高く、トルコで一番高い所に在る世界遺産です。山頂に向かうための入山料を支払いゲートを通過すると、砂利道の上り坂が急になりフォードのエンジンは唸りをあげます。
頂上にたどり着くとちょっと異様な光景です。中央に小石の山があり、その山を背に東西に多くの首のない巨大な石像が並び、首はその前に並んでいるのです。地震で首が落ちたとする説が有力ですが、イスラム教徒による偶像破壊とする説もあるようです。
(首だけの石像)

これらの遺跡群は墳墓と考えられ、紀元前1世紀にこの地方に栄えた小国コンマゲネ王国の物とされています。それにしても、この時代の切石技術の高さには驚きです。なぜこのような不便な場所に、お墓参りも大変だったろうと思わずにはいられません。
(石像の後ろの小石の山 この中に玄室があると考えられている)

それにしても、眺望は格別です。南西の方にはユーフラテス川の上流の堰止湖が見えます。水力発電や灌漑用水の為に作ったということです。この川が南に流れ、隣国シリアを通りイランのメソポタミアを潤しチグリス川と合流してペルシャ湾に至るわけです。全長は2780Kmに及ぶ国際河川の源流がこの地域なのです。ちなみに「イスラム国」で揺らぐシリアの国境までは約400Kmだそうですので、ユーフラテス川の全長に比べればかなり近い距離です。
(筆者の後ろにユーフラテス川の堰止湖)

時間のたつのを忘れ雄大な景色に見入りました。コンマゲネ国王が見渡す地域が自分の物となれば、ここに自分のお墓をと考えるのも妥当性があると思えてきました。アビディンさんは「日没を見ていきますか?」と言うことでしたが、帰り道を考え4時30分頃にネムルート山を後にしました。アビディン家に戻ったのは7時30分頃となりました。
10月1日、東アナトリアのマラティアへ3泊4日の旅のスタートです。正確にはマラティア県ペティルゲ町にあるアビディンさんの生家の訪問です。しばらく実家に帰っていないアビディンさん、奥さん、ヴェダット君、それに日本人3人の日土親善の旅の始まりです。
(マラティア空港に到着)

イスタンブール空港6時35分の国内線で一路マラティアへ、約1100Km、1時間30分の空の旅です。空港からマラティアの中心地までは小一時間かかります。車窓には畑作には向かない灌木が疎らに見える台地が続きます。そんな中で整然と樹木が植えられている個所が点在しています。聞けば杏子の木だそうです。マラティアは杏子、イチジク、クルミなどの果物が豊富で、ドライフルーツにして海外に輸出しています。
(マラティア市内に立つ杏子のモニュメント)

アビディンさんの故郷はマラティアの街から東南に約60Km隔てたアナトリアの台地にあります。迎えに来た親戚の方のフォードに乗り込み出発しました。国道を走っているうちは良かったのですが途中から砂利道となります。堅牢なフォードは唸りを上げて坂道を上ります。
(アナトリア高原に建つ5階建てのアビディンさんの家)

午後1時30分アビディン家到着です。なんとアビディン家は5階建て、小高い山の中腹に毅然と立っています。アビディンさんの先祖は2~300年前からこの地方に住んでいたという話です。
(片道1時間の山登り 後ろにアビディン邸)

一休みした後、周りを散策。野生のブドウが食べごろでたわわに実を付けています。日本の野生ブドウと違って甘いのです。私ならワインを作るだろうと考えながら散策を楽しみました。日も西に傾き、快晴の空が茜色に染まり、アナトリアの台地は「静」に包まれ「音」は皆無です。しばらくして星座が広がりましたが、その道に浅学な私にとっても日本とはちょっと違うという気持ちで満点の星空を眺めました。
(アナトリアの大地に沈む夕日)

アビディン家の夕食が始まります。絨毯の上にクロスが引かれ、奥さんの手作り料理が並びます。メインディシュは「サチカヴルマ」と呼ばれる牛肉、玉ねぎ、ピーマン、トマト、ニンニクの炒め物です。それに、ピラフ、ヨーグルトなどが並びました。
(アナトリアの台地に立つ美酒「神谷」)

しかし、ビールはありません。敬虔なイスラム教徒には食事中にアルコールを飲む習慣はないのです。敬虔な仏教徒にとっては勝手が違います。そんなこともあろうと、私は美酒「神谷(かべや)」を持参したのです。トルコ料理を食べながら「神谷」を飲み、日土友好の宴は楽しい時間となりました。
9月30日、昨日までのトロイの旅でちょっと疲れ気味です。イスタンブール散策の予定ですので、午前10時より行動開始としました。ソリッソホテルで定番朝食を済ませた後3人で打ち合わせ、市内案内地図とスマホのネット情報を頼りに徒歩で出発しました。
ホテルスタッフの話では、スレイマニア・ジャーミィがブルーモスクよりも見応えがあると言うことですので、先ずはそこを目指しました。ホテルからは徒歩で20分位の距離です。オスマン帝国最盛期に建てられたモスクで尖塔が真青な空に突き刺さるようにそびえています。金角湾側から見ても一番高く見えるのがこのモスクです。内部はブルーモスクの方が荘厳なようです。
(スレイマニア・ジャーミィ モスク)

歩いてグランドバザールへ、一昨年道に迷った思い出があります。今回は時間の制約はありませんので気の向くままの散策です。それにしても、迷路のように路地が入り組み、約4400軒の店が所狭しと並んでいます。買い物をするところというよりは、存在そのものがイスタンブールの見どころとなっているようです。
(約4400軒の店が並ぶグランドバザール)

アビディンさん知り合いの雑貨店で店主と談笑しながら品定めをしていると、日本人のツアー客の一団が店頭を通ります。客引きの手伝いをしますと、同胞が薦めているとあって、店頭はしばし日本人で賑わいました。
(青山表参道を思わせるヌルオスマニエ通り)

午後は、アビディンさんが甥のヴェダット君を伴い合流、地元人の付き添いで穴場の散策となりました。ヴェダット君はトルコ航空フライトアテンダントで26歳、なかなかの好青年です。青山の表参道を思わせるヌルオスマニエ通りにあるレストランでトルココーヒーを飲んだ後、ブルーモスクを訪ねました。ここは一昨年も見ていますが、トルコのモスクの中では最高です。イスラム教徒しか入れないサークルの中では敬虔な信者が祈りを捧げています。
(ブルーモスクの信者だけが入れるエリア)

金曜日はイスラム教ではお祈りの日とあって、ブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿などが建ち並ぶ歴史地区は大賑わいです。われわれ日本人3人組みは、もう少しこのエリアの散策をしたかったのですが、トルコ人2人組みは「お腹が空いた」と言い出しました。名物を食べようと言うので金角湾の入り口の方向に歩きました。この地域は旧市街地の中心地ですので石造りの重厚な建物が並んでいます。
(名物のサバサンド)

ガラタ橋の一階にあるレストランに案内され、ご推薦の名物は「サバサンド」でした。勿論エフェスを飲みましたが、5個注文した「サバサンド」の食べた比率は、ヴェダット2個、平山1個、アビディン1個、私0,7個、妻0,3という具合でした。どうも日本人組3人は夕食にホテルの近くのレストランでケバブなどのトルコ料理を食べなくてはという共通の認識があり、名物「サバサンド」は少し控えたのです。
(二階建てのガラタ橋 右上は釣りをする人)

ガラタ橋の二階(道路)では地元の人たちが釣りを楽しんでいます。一階のレストランの客席の前を釣り糸が上下し、架かった魚が客の目の前を引き揚げられるのですから、面白い光景です。
ガラタ橋から近くのエジプシャンバザールの賑わいの中を通って、西に傾いた夕日を見ながらトラムに揺られて帰路に着いたのでした。
(賑わうエジプシャンバザール)

いわき万本桜代表、志賀忠重さんのメッセージ「負の遺産」を紹介します。
私たち日本人全員の意志で原発を利用し事故を起こしたために、未来の子供達へ、負の遺産を残してしまうことになってしまいました。これは永年にわたる放射能の身体への影響、永く使えない土地、そばに行きたくない地域を残してしまうことなのです。更に経済的には、天文学的負債を抱えなければなりません。この負の遺産を残してしまうことにすごい悲しさ、悔しさを今さらながら感じています。何とかならないのでしょうか。
春、桜の花が満開に咲いているのを見て、20年後、30年後の未来の子供たちに、山一面の桜を見てもらえるようにしようと思い立ちました。万が一いわきに住めなくなった時でさえ、いわきの土地を愛していた人達の気持ちが伝わるくらい、沢山の桜の木を植えたいと思っています。
飛行機から見てもわかるくらいの思いを込めた木を植えたいです。まず近くの山から。一人、一人の記念樹として、一本、一本に参加してくれた人の名前をつけます。
最終的には99000本です。大勢の参加をお待ちしております。
志賀忠重さんの「いわき万本桜プロジェクト」に対する思いが伝わってきます。私も賛同している者の一人です。このプロジェクトを通した人の輪が拡大しています。また、事務局のある館山付近は、回廊美術館の延長やツリーハウスの設置など施設の充実が見られます。小学校の遠足などで賑わうスポットになっています。
(地元の小学校の遠足スポット)

(地元の木彫家が作ったお地蔵様)

(冒険心をくすぐるツリーハウス)

(入ってみたい山頂サウナ)

次回の植樹会は10月26日(日)に行われます。植樹に参加する方法は3つあります。直接現地に赴き植樹する「自主植樹」、現地まで来られない人に変わって、スタッフ、ボランティアが植樹する「代行植樹」、伐採後の桜の苗木から再生した新芽を大切に育てた桜の里親になる「プレミアム桜」です。詳しく知りたい方は下記にお電話下さい。
「いわき万本桜プロジェクト」事務局 電 話 0246 (88) 8970
FAX 0246 (88) 8971
9月29日、今日から1泊2日でトロイに出かけます。イスタンブールを午前10時に出発しました。車はベンツのワゴン車、運転はトルコ人の男性で日本語は全くダメ、英語がどうにか、ですのでちょっと不安です。
出発時、イスタンブールは雨が降っています。ベンツはアルマラ海のヨーロッパ側を軽快に走ります。ハイウェイではないのですがよく整備されていてかなりの高速で走っています。イスタンブールからトロイまでの距離は約350㎞です。2時間くらい走ってドライブインで休息した時には雨も上がり青空が見えて来ました。
トロイはエーゲ海からアルマラ海に入るターダネルス海峡のアジア側(トルコ本土)に位置します。イスタンブールから車で行くにはゲリボル半島をほぼ先端まで南下し、海峡をフェリーで渡り半島の中心都市チャナッカレに入るルートが良いようです。
(ターダネルス海峡を渡りアジア側へ)

ゲリボル半島の先端に近づいてくると車窓からは右手にエーゲ海、左手にアルマラ海が見えてきます。ゲリボル半島の港町エジェアパトの小さなレストランで遅い昼食を取り車ごとフェリーに乗り込みました。
ターダネルス海峡は海上交通の要所です。ここからアルマラ海、ボスポラス海峡を経て黒海に至るわけです。大国ロシアの艦隊もここを通らなければ地中海に出られないのですからトルコとの関係は重要です。海峡にはトルコ国旗を掲げた艦艇が行き交っています。フェリーの所要時間は30分位、ほどなくチャナッカレのパリオンホテルに到着、街の散策後ホテルでトルコ料理の夕食となりました。
(チャナッカレのパリオンホテル)

9月30日、日本語の堪能な現地添乗員の案内でトロイ遺跡に向かいました。遺跡の入り口には観光用に建てられた木馬が立っています。ホメロスの作とされる英雄叙事詩に記されているトロイ戦争、木馬の中に隠れていた兵士によってギリシャ軍の大逆転勝利となったという伝説です。それにしては木馬は少し貧相ではありませんか?
(観光用のトロイの木馬)

遺跡は流石に見応えがあります。しかし、歴史の知識と予習とガイドがなければ理解は困難でしょう。紀元前3000年ころにエーゲ海交易の中心地として歴史は始まるのですが、どの民族も欲しがるこの地は栄えては滅びる、という歴史を繰り返します。それが九層にわたる都市遺跡となっているのですから、歴史に興味のある人には大変魅力的な場所です。この地を訪れたであろうアレキサンダー大王やコンスタンティヌス帝がこの丘に立ちターダネルスネス海峡を眺めたかと思うと背筋が伸びる思いでした。
(紀元前に建設された舗装道路)

見学後は海峡を渡り、昨日と同じレストランで口に馴染んだトルコのビール「エフェス」を飲みながら昼食、マラティア出身という髭づらの店主と意気投合しちょっと飲みすぎました。おかげで、350キロのイスタンブールへの帰り道何度かのトイレ休憩となる有様です。宿泊は連泊のソリッソホテルですので、顔馴染みになったスタッフも笑顔で迎えてくれました。1泊2日のトロイの旅は無事終了です。
(髭づらの陽気な店主 どっち?)

「神谷(かべや)米」の収穫は10月に入って台風18号・19号襲来が一週間おきにありましたが、その合間を縫ってほぼ終了しました。特に神谷酒の原料となる「天のつぶ」の耕作には、今年は平田敬一さんと鈴木一成さんが当たりました。
それに立鉾神社の神田で採れた米も加えましたので、霊験あらたかなご神酒となることは請け合いです。
(鈴木一成さんの新車のコンバインでの刈り取り)

酒米は加工米としての取り扱いですので一般食米とは別扱いです。10月9日、いわき市片寄にあるいわき農協の施設で米の検査が行われました。酒米としての初出荷とあって、「ふるさとマルシェ」としても立ち会いました。
(一袋ごとの抜き取り検査)

結果は粒揃え、乾燥度合良好で全て1等米でした。米作りには定評のある二人が作った米ですので心配無用ではあったのですがほっとしました。二人は乾燥機と精米機も自家用を持っていますので他の生産者の米と交ることはありません。吟醸酒「神谷」のラベルには100%神谷米として記載することになります。
(等級検査の様子)

なお、今後の予定ですが、放射性物質(セシウム)の一袋ごとの検査を行い、全農(全国農業組合連合会)を経由して渡辺酒造に渡ります。その後、米の磨きを行い今月末には仕込みになる予定です。順調に行けば、新酒の蔵出しは12月の20日過ぎとなります。「神谷」ご愛顧の皆様、忘年会は新酒「神谷」で年を忘れ、新年は新酒「神谷」で祝っては如何でしょうか。
(一等米には◎のスタンプが押されます)

9月25日から10月7日までの13日間、トルコの旅を楽しみました。一昨年、ツアーでトルコの主な観光地は見ていますので、今回はトルコの友人アビディンさんの案内でイスタンブール・トロイ・マラティアを中心に気ままな旅となりました。私の感じたトルコの様子を紹介します。
《三方を海に囲まれたイスタンブール》
イスタンブールはアジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがる都市です。町はボスポラス海峡、アルマラ海、金角湾と三方向を水に囲まれ、歴史的建造物が海と調和し美しい景観を呈しています。
(ガラタ塔からの旧市街地の眺め 手前はガラタ橋 中央にブルーモスク)

宿泊したソリッソホテルは旧市街のトラムが走るアーレムダール通りに面して大変便利です。イスタンブールには1週間滞在しましたので、トラムの回数券を購入し毎日利用しました。ホテルの近くのアクサライ駅からトラムに乗り2駅で左手にグランドバザール、更に1駅で右手にスルタンアフメット地区のモスクの尖塔がそびえています。
(市街地を走るトラム)

そこからトラムは次第に下り坂となり金角湾に架かるガラタ橋を渡ると新市街地の行楽街が広がります。右手はボスポラス海峡です。海峡越しにアジア側を眺めながらトラムの終点駅の一つ手前のフンドックル駅で下車しました。前回のツアーでは黒海側に数キロ海峡クルーズをしたのでしたが、今回はフンドックルからタクスィム広場に上り周辺の散策コースとしました。前回宿泊したヒルトンはタクスィム広場の近くでしたので懐かしい風景です。
(タクスィム広場の賑わい)

(ボスポラス海峡越しに眺めるアジアサイド)

イスタンブールは、かつてローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国という3代続いた大帝国の首都だったわけです。丘の上に立ち四方を眺めると風光明媚な海のある風景が一望でき、権力を持ったならここを中心に君臨してみたいと思うのは当然のような気がします。
(アルマラ海を警備するトルコ海軍の警備艇)

一昨年「トルコ紀行」を掲載しましたが、その時にイスタンブールで知り合ったトルコ人のアビディンさんとは日本で何度か会っています。彼はイスタンブールのグランドバザールで絨毯店を経営しているのですが、お客さんも次第にグローバル化し日本にも多くのトルコ絨毯愛好家がいるようです。そのため毎年トルコ絨毯を抱えて来日しています。
(史跡の街 イスタンブール)

来日の折には、東京や我が家で会って親交を深めてきました。彼は大の親日家で日本語も堪能で、日本での長期滞在ビザも有しています。そんなアビディンさんの誘いもあって、もう一度トルコを訪問することにしました。今回は、イスタンブールを中心に彼の故郷であるマラティアも訪問する予定です。
(金角湾に架かるガラタ橋・後ろにガラタ塔)

(ボスポラス海峡から眺めるイスタンブールヨーロッパサイドの街並み)

そのため「団長ブログ」の掲載を半月くらい休みます。帰国後にイスタンブールのホットニュースなどを掲載したいと考えています。
今年の2月に販売を開始した吟醸酒「神谷(かべや)」は8カ月を経過し、10月には完売する見通しです。一升瓶換算で約3000本生産し、月平均380本位の売れ行きでした。当初、酒屋の関係者からは「1000本くらいは売ってみてください」と言われていましたので、結果的には大成功でした。
(「いわき万桜」の館山から眺める「神谷米」のふるさと)

販売は「ふるさとマルシェ」が中心になったのは勿論ですが、その他にいわき市平の三國屋さん、中神谷のローソン神谷店でも取り扱って頂いたことが知名度を上げるうえで良かったようです。
(平五色町の三國屋の店舗)

(ローソン神谷店の店頭に並ぶ「神谷」)

売り出した2月には、地元中神谷にある立鉾神社宮司の神職昇進祝いの振舞い酒として使用して頂きました。また、神谷地区の住民には回覧板で販売のお知らせをしたことなどが、地元の酒として認知されることに繋がったと思います。
(刈穂祭が行われる立鉾神社周辺の圃場)

しかし、何と言っても決め手は「味」です。吟醸酒「神谷」のやや辛口でキレの良い飲み口と芳醇な香りが日本酒ツウにも好評でした。夏を越した今になって、蔵出し直後より味に円やかさが出て更に旨みが増したとの評判です。
「ふるさとマルシェ」では、今年の生産米での醸造計画を立てています。吟醸酒「神谷」の使用米の品種が「日本晴」から県の奨励米である「天のつぶ」に変わります。これは醸造にあたる三者、渡辺酒造の社長・米生産者・「ふるさとマルシェ」の相談によるものです。渡辺社長の話では、福島県内の酒蔵の間でも「天のつぶ」を使う傾向だと言うことです。売出しは、早ければ12月の末になる予定で、年末・年始を新酒で祝えればと期待しています。
「天のつぶ」の穫り入れは間近に迫っています。生産にあたった前回ブログ(9月15日)で紹介した平田啓一さんと鈴木一成さんは、酒米にあった施肥の方法なども研究し万全の態勢で臨んでいます。更に上質の新酒「神谷」が醸造されることになりますので、どうぞご期待ください。
「ふるさとマルシェ」でも取り扱っている「神谷(かべや)米」の収穫が近づいてきました。今年のいわき地区の天候は、集中豪雨に遭うこともなく比較的安定していましたので、作柄は上々で例年並みかそれ以上の収穫が期待できるようです。
(収穫間近の「神谷米」の圃場」

この地域の農家は水稲耕作に当たって、肥料は一般的に農協から調達しています。しかし、今年初めての試みとして、平田敬一さんの耕作する圃場で吉野石膏が製造している「ダーウィン」という肥料を使ってみました。
これにはちょっとした経緯があります。販売元のサンスペースアメニティの社長河内昭宏さんは私の学生時代の同級生であることから、取り扱っている「ダーウィン」を平田さんに試供品として提供したのです。
9月9日、河内さんは状況視察と神谷米耕作者との懇談のため、会社のある山梨県南都留郡山中湖村からはるばる出かけてきました。当日は好天に恵まれましたので、圃場の様子や稲穂の実入りの状況などをつぶさに視察することが出来ました。
(作柄調査の様子)

平田さんの耕作する稲の品種は、主に「コシヒカリ」と福島県奨励米の「天のつぶ」です。「ダーウィン」はコシヒカリの圃場約20アールに使用しました。驚いたことに、施肥したものと、しないものの差が歴然としているのです。施肥した方は草丈も長く穂も大きいようです。一見すると倒伏しかかっているように見えますが、実は違うのです。
(見事に実ったダーウィン使用の「コシヒカリ」)

平田さんと河内さんの話によると、「ダーウィン」には根をしっかりさせ茎を太くする効用があるため倒伏防止の効果があるというのです。10日位したら刈り取る予定で増収が期待できそうです。平田さんは水稲耕作に関して研究熱心で、コメの旨みを出す施肥の方法など理論的に実践しています。「ダーウィン」を平田さんに試してもらったのは正解だったと思います。
(視察後の記念撮影:左から 平田さん・筆者・鈴木さん・木村さん・河内さん)

平田さんの圃場の見学の後、今年の吟醸酒「神谷」の原料となる「天のつぶ」の圃場を視察しました。夜は懇親の宴を催し、吟醸酒「神谷」を飲み交わしながら米作り談義に花が咲きました。
9月6日・7日、ふくしまから はじめよう。「食」と「ふるさと」新生運動推進本部・福島県が主催する「おいしいふくしま、いただきます」フィスティバルがいわき市アクアマリンパークで開かれました。「おいしいふくしまの恵みが大集合」のキャッチフレーズの下に出店を呼びかけ、各地から120を超える出店があり県内最大級の食の祭典となりました。
(食の祭典の会場となったアクアマリンパーク)

7日の日曜日には「ふるさとマルシェ」も出店しました。午前中は生憎の雨模様でしたが昼頃には雨も上がり夏の日差しが戻りましたので、午後は待ち構えていた来場者で賑わいました。「ふるさとマルシェ」では、吟醸酒「神谷(かべや)」、ウニの貝焼き、サンマのポーポー焼き、牛肉の串焼きなどを販売しまずまずの売れ行きでした。
(出店した「ふるさとマルシェ」のコーナー)

特設ステージでは、6日(土)には間寛平トークショー、7日(日)には清水アキラ爆笑トークショー、アンパンマンショーなどが行われました。子供からお年寄りまで楽しく過ごせた2日間だったようです。
(人気の特設ステージ)

食べ物関係では、実演販売するコーナーに人気があったようです。特に、原発避難地域のB級グルメ「浪江焼きそば」には長い行列が出来ていました。
(お馴染みとなった浪江焼きそば)

目についた会津漆器の店「華蔵」を覗いてみると社長と奥さんで仲良く販売にあたっていました。私は単身赴任で会津に住んだことがありますので、しばし漆器やお酒の話で盛り上がり、手ごろなお椀を買い求めました。社長の「会津の生産者もこのような機会をとらえ、打って出る姿勢を見せなければ伝統工芸も衰退してしまう」という話が印象的でした。
(おしどり夫婦で販売する会津漆器の「華蔵」)

福島県の各地に、食にも工芸品にも伝統的な遺産が豊富にあります。それらを受け継いでいるだけに留まっているのでは発展にはつながりません。「華蔵」社長の話のように、積極的に打って出る姿勢があってこそ新たな創造につながるのです。「ふるさとマルシェ」は消費者に正確な情報を提供する媒体としての役割があると考えています。どうぞ、自慢の逸品の情報をお寄せ下さい。共に打って出ようではありませんか。
9月5日、第5回スナックO-kuraミニライブが開催されました。今回はシンガーソングライターの木村竜蔵さん弾き語りです。木村さんはデビューして2年目、現在は無名の新人と言ったところです。しかし、彼の父親は、誰もが知っている「兄弟船」の鳥羽一郎さんです。
(熱唱する木村竜三さん)

鳥羽一郎さんはスナックO-kuraには何度か顔を見せたことがありますので、父親の紹介でミニライブの運びとなったようです。例によって観客は常連30名です。木村さんは25歳、売出し中の若者とあってすべてを自曲と言うわけにはいきませんでしたが、カバー曲を含め10曲ほど精力的に歌いました。
(気さくにファンサービス)

テノールで声量があり歯切れの良い歌いくちです。新作の「25時の月」は自信作、青春の情景を歌った曲は世代を超えて親しめそうです。群馬テレビのニュース番組で流されるという「つぐむ」は世界遺産となった富岡製糸場をイメージした曲のようです。つぐまれた糸によって過去・現在・未来をつないでいこうと言うような詩で群馬県PRにふさわしい内容です。
(聴き入るスナックO-kuraの常連客)

観客からは演歌のリクエストがありましたが、木村さんからは「演歌は難しい、親父の歌は歌えません」と言うことでした。親の七光りも無いとは言えないでしょうが、自立し魅力的なアーティストに成長してほしいと思います。
(木村竜三さん・マネジャーの杉岡祐樹さん)

オルセー美術館に行ったのは2010年の5月中旬の晴れた日でした。セーヌの河畔に建つ元駅舎兼ホテルだったいう美術館の佇まいは印象的です。半日くらいあればと思って訪れたのでしたが、とても見切れるものではありませんでした。結局、有名な作品を追い、そそくさとした鑑賞に終わってしまいました。また訪れようと思って立ち去りましたが、そうそうパリまで出かけるわけにはいきません。
(セーヌの河畔に建つオルセー美術館)

今回の国立新美術館でのオルセー美術館展は、悔いの残った4年前の想いを補てんしてくれるものでした。展示作品は84点ですのでパリに比べれば少ないわけですが、印象派の作品を系統的に展示してあり、素人の私にも鑑賞しやすく堪能できたように思います。
(近代的な国立新美術館)

パリで第1回印象派展が開催されたのは1874年のことです。モネ、ドガ、ルノアール、セザンヌらが私的に開いた展覧会だったようですが、パリ市民からは酷評だったそうです。展示されたモネの作品に対して、ある新聞記者が「印象的にヘタクソだ」と揶揄したことから印象派と呼ばれるようになったと言うのですから面白い話です。
(セザンヌ展の看板に描かれたクロード・モネの「草上の昼食」)

会場に入ると、マネの作品が迎えてくれます。マネと言えば「笛を吹く少年」です。少年の衣装の赤と黒のコントラストに目を奪われます。私は少年の吹いているのはピッコロかと思っていましたがファイフという楽器だそうです。音声案内ではファイフの演奏も聞くことが出来ました。
(ガイドブックの表紙になっている「笛を吹く少年」)

会場は9章編成で系統的に展示されています。1章マネ、新しい絵画、2章レアリスムの諸相、3章歴史画、4章裸体、5章印象派の風景、6章静物、7章肖像、8章近代生活、9章円熟期のマネと言った具合です。作品の中にはパリのオルセーで感銘を受けたものもありましたので「よくぞ再会」と言った感じでした。
(プロバンスの町の公園に置かれているセザンヌ像)

特に、セザンヌは2012年にこの会場で開催されたセザンヌ展も鑑賞しましたし、フランス旅行の折プロバンスにあるアトリエも訪問していますので親しみを感じます。今回はセザンヌの「自画像」や代表作の「リンゴとオレンジ」に会うことはできませんでしたが、「いずれパリで」とつぶやき美術館を後にしました。
前回のブログで、東京大学医学部教授上昌広さんのいわきの医療に対する指摘を紹介しました。その中で、いわき市の人口1000人当たりの医師の数は1.7人でメキシコの平均と同じと言っていたことに驚きました。
3年前の2月、いわきの医療問題に直面しました。92歳になる母が突然倒れ救急車を要請した時のことです。救急車は10分以内で到着したのですが、ホッとしたのも束の間それからが大変でした。救急隊員が受け入れ病院を照会すると、休日ともあって無いのです。挙句の果てに、付添いの私に「知り合いの病院は無いのか」と言う始末です。受け入れ病院が見つけるのに40分位かかってしまいました。これがいわき市の現状なのです。
(待機する救急車 搬送先を探すのに一苦労)

今回は「医療公開シンポジウム」で講演した、鴨川市の亀田総合病院副院長の小松秀樹さんの指摘を紹介します。小松さんは東京大学医学部を卒業後、山梨医科大学泌尿器科助教授、虎の門病院泌尿器科部長を経て現在に至っています。
(医療公開シンポジウム 小松秀樹さん 左から2人目)

(いわき市との関係)
東日本大震災の直後、福島県の透析患者、人工透析器装着患者などを鴨川に受け入れた。その後、南相馬市の医療再建を支援した。こうした活動を通していわき市の「ときわ会」のような活動的な医療介護提供者と知り合うことが出来た。しかし、福島県に独立自尊の気風が弱いこと、地域エゴをコントロールできないことが、医療の発展を阻害していることをしばしば感じた。
(ときわ会 常磐病院 人工透析センター)

(福島医大の医局は、他の医局と争うやくざの組織と同じ)
震災前、浜通りの医師の供給は東北大学と福島県立医大に依存していた。両大学とも医師の派遣要請に応えきれない状況が続いていた。福島県立医大の医局には、医師を引き揚げるにも関わらず、他からの採用を邪魔することがあった。医局は、自然発生の排他的運命共同体であり、法に追認をうけていない。やくざの組織と同様、医局の勢力を他の医局と争っている。
(病院が医師の育成に当たるべき)
日本で評価されている病院は、医師の教育制度を充実させ、自力で医師を育成している。地方の中規模病院でも、元気がよいのは、自力で医師を育てている病院だけである。医師の供給を大学だけに求めてきた病院が苦境に陥っているのは、医局員の数がニーズに対し相対的に減少していることに加えて、医局が医局外の参入障壁になっているためである。
医師を集めるのに、特定大学だけに依存すると、全国区の医師募集はできなくなる。東北地方の大学病院そのものが医師不足なので、大学に頼っても派遣医師は減少し続ける。医師1名、年間5000万円の費用を要する寄付講座からの派遣が増える。この方法での医師の調達は基本的に間違っている。
(南相馬市立総合病院は医師の数を震災前の倍にした)
南相馬市立総合病院では、常勤医師の数を審査以前の2倍を上回る状態になっている。これは、「攻めの医師募集」として、医師30名を募集した。その際、ミッションを明確にして、医師に生きがいとこの病院で働くことの価値を提示したことが功を奏したのだと思う。亀田総合病院からも出向させた。
いわき市ではいわき共立病院の改築を進めているが、病院を新しくしたからと言って医師が集まるものではない。
(ときわ会 常磐病院)

7月に、私の友人が初期の癌で「ときわ会 常磐病院」に入院しました。手術は成功し、現在は普通の生活に戻っています。彼は「常磐病院は変わった、医師の対応、インフォームドコンセンサスがとてもよかった」と語っています。
小松さんは「地域の医療を変えるのは公立病院ではない、やる気のある医療機関だ。」と話していました。「ときわ会」が先駆となっていわきの医療を変えてほしいと考えるのは私だけではないでしょう。
先日、いわき市文化センターで「いわきの医療公開シンポジウム」が行われました。主催したのはいわきの医療を考える会で中心となったのは公認会計士で市会議員の吉田実貴人さんです。
シンポジウムは、上昌広さん(東京大学医科学研究所教授)、小松秀樹さん(亀田総合病院グループ副院長)、木村守和さん(いわき医師会副会長)の講演の後、吉田実貴人さんがコーディネイターとなって7名の専門家で行われました。
特に、上さん・小松さんの講演は、いわきの医療を客観的に見たもので大変参考になりました。お二人のいわきの医療に対する指摘を中心に紹介します。
(コーディネイターを務めた吉田実貴人市議)

上さんは東京大学医学部を卒業し、現在、東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門の特任教授をしています。いわき市とのつながりは、原発事故後にときわ会の透析患者を千葉県鴨川市に搬送することに関わったことだと話していました。
(東京大学医学部教授 上昌広さん)

(我が国の医学部の偏在)
多くの人は「東京に集中している」と考えているだろうが、実態は違う。医学部の数でみると、東京には13あるが九州には10、四国には4ある。人口割で見た場合西日本に多いことが分かる。東京以外の東日本は少ない。
人口千人当たりの医師の数で見ると、最も少ないのが埼玉で1.5人、千葉が1.8人となっており、徳島の3.2人、福岡の3.0の半分程度だ。いわき市は1.7人でメキシコの平均程度である。
国内の医学部偏在の格差の要因は戊辰戦争が関係している。官軍となった西国雄藩が優先的に国立大学を地元に配置して医学部を設置したことによる。
(看護師の不足について)
看護師の平均年収は約472万円だが、これは我が国のサラリーマンの平均所得(409万円)より上だ。看護師は業務独占資格であるため、既得権を持つ抵抗勢力があり、新規参入が難しい。
東京都の舛添知事は看護師不足解消に本気で対応しようとしている。そうなると、関東圏に隣接するいわき市から人材が流出する恐れがある。それを見越したいわき市の対応が必要となるだろう。
(東北地方に医学部の新設について)
東日本大震災を経て、東北に医学部が新設されることが決まった。安倍総理の英断で規制が緩和された。今こそ、戊辰戦争以来、抑圧されてきた東北の飛躍の時期かもしれない。にも拘らず、これに対して最も反対したのが、岩手医大・東北大・福島医大の幹部だった。このような姿勢では、医学部の偏在、医師の偏在の解消は不可能であろう。
(いわき共立病院の新築について)
なぜ今、共立病院の改築なのか。6年後のオリンピックを控えて建築費が高騰するのは目に見えている。300億では上がらないだろう。ハコモノを作っていったい誰のためになるのだろうか。その借金は子供たちが払うことになる。
ハコモノに金をかければ待遇が据え置かれるのが一般的、それでは人材は集まらない。
(改築が予定されている「いわき共立病院」)

(医療の充実は教育の充実)
医療の充実は一朝一夕には行かない。地域の医師数は、地元の中学や高校の教育レベルに直轄する。いわきの医療を充実されるには、いわきの教育の充実を図らなければならない。
いわき地方のお盆の風物詩となっている「じゃんがら念仏踊り」が新盆の家々を供養して巡りました。「じゃんがら」は踊念仏の一種で、太鼓と鉦に合わせて踊る伝統芸能です。「じゃんがら」の呼称は鉦の音がジャンカ、ジャンカ、ジャンカと聞こえることからそう呼ばれるようになったのでしょう。
起源は江戸時代にまで遡りますが由来は諸説あります。江戸時代前期の浄土宗の高僧祐天上人(現在のいわき市四倉出身)が、村人達の慰安と念仏の普及を兼ねて南無阿弥陀仏の称名を歌の節にあわせて踊りと共に唱えさせたのが始まりと考えるのが通説でした。しかし、それを裏付ける資料はありません。
(草野地区の青年会による「じゃんがら」)

近年の調査研究により、磐城平藩の郡奉行で用水路の工事を指揮した澤村勘兵衛勝為の霊を慰めるため、当時江戸で流行した泡斎念仏を村人たちが始めたとする説が有力視されています。澤村勘兵衛は17世紀の中頃、「小川江筋」と呼ばれる農業用水路を開削しました。しかし、澤村勘兵衛は水路完成後とある讒言によって切腹を命じられ、明暦元(1655)年に亡くなりました。
その一周忌にあたる明暦2(1656)年7月14日、たくさんの農民が集まり供養念仏を行ったことが、いわき市平泉崎の光明寺の僧歓順が書いた「小川江筋由緒書」に書かれています。この時踊られた念仏踊りが「じゃんがら」の始まりだというのです。現在でも、光明寺では月遅れのお盆の8月14日に澤村勘兵衛の供養塔の前で「じゃんがら」が行われています。
(七夕まつりで踊る平商業高校の「じゃんがら」同好会)

この2つの説のどちらを支持すると言うわけではありませんが、私は当時の世相にこんな考えを持っています。「じゃんがら」は太鼓と鉦のメインの踊りに入る前に、歌(甚句)に合わせて手踊りが行われます。この甚句は即興でも歌われましたので色々とあったようです。
(女性じゃんがらチーム「さくらつつじ」 神谷地区)

この地域で歌われる甚句の文句にこんな件があります。「盆でば米の飯 おつけでば茄子汁 十六ささげの 汚しはどうだい・・・」と歌われます。これにはこんな意味が隠れています。「お盆になると米のご飯が食べられ、茄子の味噌汁が添えられる。十六ささげのゴマ汚しも食べられる。」と言うのです。
17世紀の農民の食生活は、日常的には米など食べられませんし、味噌汁は贅沢で一般的には塩汁でした。十六ささげ(インゲン豆の一種)のゴマ汚しは最高の御馳走だったのです。
(神谷地区を供養して巡る「じゃんがら」)

当時、磐城平藩は「小川江筋」の開削事業資金を捻出するため、農民に対する年貢を相当引き上げていました。そのような搾取の中で、農民はお盆を楽しみにし「じゃんがら」を半狂乱的に踊ったのではないでしょうか。「じゃんがら」は搾取の中で流行した郷土芸能だったのです。(筆者の私見)
8月6日から8日までの3日間、いわき市平の中心市街地で夏の風物詩となっている「平七夕まつり」が開催されました。
本町通りやレンガ通り・銀座通りには、笹竹に色鮮やかな笹飾りや吹き流しが彩る中、着飾った多くの市民で賑わいました。3日間の人出は好天に恵まれたこともあって約50万人あったということです。震災以後、夏祭りなどの催しが賑わう傾向にあります。
(夏の風物詩 七夕まつり 平本町通り)

(レンガ通りの賑わい)

その要因は、いわき市に双相地区からの原発避難民が2万人以上流入しているためだと言われています。移住している方々も異郷の祭りに興じて、一時現実からの逃避をしてみるのも精神的に良いことかもしれません。
(被災地浪江町のB級グルメ なみえ焼きそば)

出店も通りの両側に所狭し、と並んでいます。昔ながらの綿あめ、金魚すくいは固より仙台の牛タン焼きや広島焼きなど屋台も全国的になっているようです。それを頬張りながら歩く高校生と思われるユカタ姿は、どう見ても色気よりは食い気です。主催者の話では出店数は380軒で過去最高ということでした。
(いつの時代も人気のある金魚すくい)

他には、趣向を凝らしたステージやじゃんがら大会など多彩な催しが市民を楽しませてくれています。中でも、県立平商業高校の女子生徒で結成する「じゃんがら同好会」は、会場の広場でいわき名物のじゃんがら念仏踊りを披露して目を引きました。
(県立平商業高校の「じゃんがら念仏おどり」)

平七夕祭りの起源は、大正年間に仙台に本店のある銀行が平三丁目の支店前に仙台七夕の飾りつけをしたことに由来するといわれています。私が両親に連れられ見に来たのは昭和30年代です。風にたなびく吹き流しの下を歩いた思い出がありますが、今とは違った風情があった気がします。
いわき市は国道6号線に沿って長い海岸線が広がっています。海水浴に適した砂浜も多く磐城七浜と呼ばれ、茨城県に隣接する勿来海水浴場から一番北の波立海水浴場まで7つの海水浴場があります。残念ながら今年海水浴場としてオープンしたのは勿来海水浴場と四倉海水浴場の2つだけです。大震災による津波の被害などにより他の5つの海水浴場は開くことが出来ませんでした。
(活気を取り戻した海水浴場)

先日、私の家から東に約7㎞にある四倉海水浴場を覗いてみました。この海水浴場は広大な砂浜が広がり開放的です。夏休みに入り日曜日とあって子供たちの姿も多く、震災前のように賑わっていました。色とりどりのパラソルの花が咲きバーベキューなどを楽しむ姿は平和な夏の浜辺です。あの忌まわしい津波が押し寄せた同じ海とはとても思えません。
(広い砂浜に色とりどりのパラソルの花が咲く)

海水浴場に隣接して道の駅「よつくら港」が営業を再開しています。1階は地元の海産物・野菜・果物などの直売コーナーとなっていてお土産を求める人で賑わっていました。2階のフードコーナーには地元の食材を使った料理店が6店舗営業しています。テラス席からは食事をしながら広大な砂浜と太平洋を一望でき人気があります。
(道の駅 「よつくら港」)

(地元産品の直売コーナー)

道の駅から6号線を300メートルくらい下ったところに、「いわき蟹洗い温泉太平洋健康センター」があります。この施設も津波の被害により営業の休止を余儀なくされましたが、今年の7月に営業を再開しています。展望露天風呂など各種の温泉施設を有するいわき蟹洗い温泉は震災前から人気のスポットでした。営業再開により利用者も以前の状態に戻り活況を呈しています。
(営業を再開した太平洋健康センター 蟹洗い温泉)

このように、四倉地区は集客要因となる施設の復興により活気を取り戻した感があります。相乗効果により海水浴場も賑わいを見せているようです。残された問題は漁港の復興でしょう。沿岸漁業は完全復活には至っておりませんので、近海物の魚が本格的に水揚げされる状態ではありません。名物のウニの貝焼きやアワビなどの海の幸が安心して食べられる日が来ることが待たれます。
会津若松市一箕町の渡辺宗太商店の店主渡辺宗喜さんは十年来の友人です。私が会津に単身赴任していた折、宗太商店の酒蔵で会津の酒の味を教わったものでした。宗喜さんが「これはいいから飲んでみっせ」と勧める一本は本当に旨いのです。単身赴任をよいことにお勧めの逸品を堪能したものでした。そのようなこともあって、「ふるさとマルシェ」は宗喜さんからアドバイスを得ることが多々あるのです。
(酒仙の館「会津酒楽館」)

現在、酒店の経営は息子の宗太郎君に任せて趣味の世界を楽しんでいる感があります。現在の店舗「酒楽館」は会津の古民家の材料を再生して建てられたもので城下町の雰囲気にマッチしています。店内の天井を見上げると手斧(ちょうな)で削った跡のある太い梁が目を引きます。宗喜さんの拘りの館と言ったところです。
(「酒楽館」の店内)

二階で食べさせる一日限定20食の蕎麦も彼の趣味の域から生まれた絶品なのです。7月に、この蕎麦を打つ別棟を新築しました。訪問した折に見せてもらうと、蕎麦打ちの部屋の他には、日本酒を常温(15度)で保存する部屋、写真撮影のためのスタジオなどが設えてあり、正に趣味の空間です。スタジオの片隅には競技用自転車がさりげなく置かれています。
(そば粉100%の手打ちそば)

彼は若いころから自転車を趣味にしていました。今でも折りたたみの自転車を乗用車のトランクに入れ奥会津などの景勝地を走っているようです。最近私が自転車を始めたのには、少なからず彼の影響があります。今年の秋には、彼をいわきに誘って夏井川のサイクリングロードを一緒に走ってみたいと考えています。
(新築した酒楽館別館 趣味の館)

(別館の中の酒貯蔵庫に立つ渡辺宗喜さん)

(愛用の自転車も格納)

私は、「人生今をどう生きるか」を常に自問しながら生きてきました。シニアになった今、この自問はさらに強くなったような気がします。そのような意味でも、同世代の宗喜さんの処世は大変魅力的です。数年前に最愛の奥さんに先立たれましたが、悲しみを乗り越え能動的で常に前向きな生き方をしているように見えます。時に会津に赴き、彼の打つ蕎麦を肴に会津の酒を酌み交わし、趣味の話をしながら「一杯復両杯 多不過三四 便得心中適 盡忘身外事」の心境になるのが無類の楽しみです。
7月21日(海の記念日)、平中神谷の出羽神社で伝統的神事「茅の輪くぐり」と羽黒露沾会展の表彰式が行われました。どちらの行事も平成21年に復活し、震災の影響で中止になった23年をのぞいて、今年で5年目になります。
「茅の輪くぐり」は夏の暑さから身を守り、正月からの罪や穢れを祓い清めるための神事です。茅の輪の製作は19日神社総代総出で行いました。夏井川の河原から刈り取った茅を芯にした割竹に巻き付け、直径約2メートルの輪を作り、竹組につるす作業はなかなか大変です。「直径2メートルにするのに竹の長さは何メートル必要か」など、算数の知識を駆使します。それでも半日くらいの作業で何とか作り上げました。
(直径2メートルの茅の輪作りは大変)

(完成して記念撮影)

当日は梅雨明け前でしたが好天に恵まれ、さほどの暑さでもなく祭り日和です。神事は、佐藤宮司が祝詞を奏上した後、参列者が先導の宮司に続き「水無月の夏越の祓する人は 千歳の命 延ぶというなり」の一句を唱えながら茅の輪をくぐります。そうすると、正月から半年分の穢れは祓われるというわけです。この句は江戸時代に内藤露沾が詠み当神社に奉納したものだと言われています。
(宮司の先導で茅の輪くぐり)

続いて行われた羽黒露沾会展の表彰式では、今年のお題「田(田んぼ・田園)」にまつわる俳句や川柳、短歌86句の応募作品の中から8句の受賞作品が発表されました。最優秀・優秀作品は次の句です。
最優秀 「見渡せば 青田は凪の 海のごと」 志賀邦子
優 秀 「先人の 汗を集めし 美し田 たった一夜で 荒土盛らる」 福田 功
優 秀 「残照に 帰宅忘れて 田を植える」 志賀由直
佐藤宮司から受賞者に表彰状が手渡され、選者となった猪狩行々子さんから講評がありました。猪狩さんは入選作について一句一句講評し、なぜ良いのか、惜しい句をこうすれば良くなるなど具体的に話していただきました。昨年より作品も増え、良い句が多く選考に苦労したとのことでした。私事で恥ずかしいのですが、最優秀と優秀に夫婦で選ばれました。
(句会の入賞者の記念撮影)

また、神事に先立ち、参列者には裏千家師範代の吉田萬成さんがたてたお茶が振る舞われ、お運びには地域の子供たちが当たりました。寺や神社には足が遠のく昨今ですが、出羽神社の茅の輪くぐり・句会・茶会を取り入れた神事は住民参加型の魅力ある企画だと思います。
(お茶会の様子)

先日、奥会津の只見町に行くため国道252号線を走りました。この国道とJR只見線が只見川を縫うように並走しています。磐越自動車道の坂下インターで降り、国道252号線を柳津町・三島町・金山町・只見町へと走ります。カーブも多く走りやすい道路ではありませんが風光明媚です。私は金山町に2年間住んだ経験がありますので沿線には懐かしい景観が広がっています。
(洪水前 紅葉の只見川 会津川口駅付近)

1911年7月、新潟県と福島県会津地方を襲った集中豪雨は、只見町で観測史上最大となる711mmを観測し、多くの発電ダムで設計洪水流量超過など戦後最大規模の洪水を発生させました。只見川流域の只見町・金山町・三島町・柳津町では洪水氾濫、土砂崩れ、護岸崩壊、橋梁の落橋など、沿川居住地や公共土木施設等に甚大な被害をもたらしたのです。只見町に住む知人はその時の豪雨の様子を「滝のような雨と言うがそれ以上だ、空から水の柱が地中に打ち込まれるようだった」と表現したのが忘れられません。
(復旧できないでいる只見川の鉄橋 金山町横田地区)

折しもこの年の3月には東日本大震災がおこりました。被害の少なかった奥会津では、温泉組合の人たちが中心となっていわき市にボランティアに来てくれたのでした。金山町の温泉旅館恵比寿屋の坂内さんのグループは小名浜・豊間地区の津波被害地でガレキの撤去作業にあたって頂きました。そのようなことから7月の水害被害に対して、いわきテレワークセンターが中心となって義捐金を集め贈った経緯があります。
(完成した護岸工事 金山町横田地区)

この地域を訪れてみると、国道252号線の落橋などは復旧できたものの道半ばです。特に、JR只見線の金山駅から只見駅間は現在も列車が走る状況ではありません。金山町の2箇所の鉄橋は落ちたままで、JR東日本も赤字ローカル線の復旧に手をこまぬいているようです。雑草に埋もれかけている赤さびた線路やプラットホームが哀れです。
(雑草の埋もれた只見線の鉄路)

諸悪の根源をなした只見川は、発電所のダムが復旧していないので水を貯めることが出来ず、場所によってはかつての渓流の姿に戻っています。私が印象に残る只見川は深くゆったりとした流れで、川霧が旅情をそそったものでした。只見線が全線復旧し電車を川面に映しながら優雅に走る絵になる風景は再び見られるのでしょうか。
(只見駅 会津方面の線路は使われていない)

3.11大震災はいわき市にも大きな爪痕を残し、3年が経過した今も復旧・復興に暇の無い状況です。特に津波による被害地の復旧には時間がかかります。
最も被害の大きかった豊間・薄磯地区の現状を見てみると、気まぐれな自然との共生はどうあるべきなのか考えさせられます。
現在、この地区では官民挙げていろいろな工事が行われています。薄磯地区は高台移転が計画されていますので新築の住宅は建てられていません。しかし、豊間地区は微妙です。海岸線には従来の防波堤をかさ上げする工事が進められ、その内側では土盛り工事や一般住宅の修理や新築工事が行われているのです。
(防潮堤が完成すれば美しい景観は失われる)

豊間は地区内の土地の高低差があるため津波の被害にも差がありました。そのため、復興に対する住民の選択もいろいろ出てきているようです。とにかく海の近くは嫌だと内陸部に移転する人、1000年に一度に拘る必要はないと元の場所に新築する人、経済的な理由から修理し元の家に住もうとする人など住民の様々な行動となって表れています。
(浜辺の丘陵地に立つ高級住宅)

海には近いけれども丘陵地形によって救われたホテルや高級住宅が核となって新築住宅がスプロール的に拡大しているようです。浜辺は海水浴場こそ開かれていないもののサーフィンをする若者の姿が次第に増えてきています。
(サーフィンを楽しむ若者)

それにしても気になるのは防潮堤です。完成すれば海辺の景色は一変します。気まぐれな自然現象に対抗するかのように砦のごとく海をにらんでいます。自然との共生という視点で考えた時に多少疑問を感じるのは私だけでしょうか。
(海の見える丘に建つ新築住宅)

平安時代の史書「日本三代実録」によると、西暦869年に陸奥の国東方沖を震源とする大地震が起き津波の被害も甚大であったことが記されています。いわゆる貞観地震と呼ばれ、今から1000年以上前の史実です。いわき市の被害の程度についての記録は発見されてはいませんが、今回と同じような津波に見舞われたことは想像がつきます。
(建設中の災害公営住宅)

科学が如何に進歩しようと、人間が自然を支配することは不可能です。忘れたころにやってくる気まぐれな自然災害にどう対応すべきなのか、人類の永遠の課題です。その根底にあるものは「自然との共生」でなければならないでしょう。
「ふるさとマルシェ」でギリシャ クレタ島のオリーブオイルを取り扱っています。このオリーブオイルは、クレタ島に人的な関係を持つ前島一夫さん(株式会社ケイアンドエム社)が直接輸入しているものです。
(私も愛用している テラクレタとプシラキス)

○ クレタ島の一番搾りオイル
ギリシャの島々の中で最南端に位置するクレタ島は、美しいエーゲ海に囲まれ、一年を通じて温暖な気候に恵まれています。この地では先史時代よりオリーブの木が栽培されてきました。
特にクレタ島西部のコリンバリ高原のオリーブは根を深くおろした古木が多くより栄養を豊富に蓄えた身の詰まったオリーブができると言われています。
化学肥料を一切使うことなくオリーブの果実を丁寧に手摘みしたプシラキスとテラクレタブランドはオイルと言うよりオリーブ果汁、まさに神の恵みともいえる逸品です。(ケイアンドエム社の資料参照)
(一年を通じて温暖な気候のエーゲ海)

○ オリーブオイルの効用
オリーブオイルと健康、美容、医薬等の関係は、古代から知られていました。ホメロスは「金の液体」と呼び、ヒポクラテスは「偉大な医薬」呼んでいました。
最近、数多くの研究により、オリーブオイルが心臓血管系の疾患、ある種の癌、老化などの予防に大きな役割を果たすことが学術的にも広く証明されるようになりました。
他にも様々な効能があります。豊富に含まれているトコフェロール類やポリフェノール類は、天然の抗酸化物質で癌の発生に関係があるとされるフリーラディカル(活性炭素)を消去する効果があるということです。消火器にやさしく働き、胃酸の過剰な分泌を抑制し、潰瘍の予防、治癒にも効果があり、古来胃の薬として使われてきました。
また、肝臓、腸、すい臓、皮膚などの機能を高めることでも知られ、悩んでいる方も多い便秘にも大きな効果があります。さらにビタミンDの吸収を高めるので、骨粗しょう症の予防にも役立つのです。
○ オリーブオイルの歴史
原産地とされているのは、トルコ南部の地中海に面した自生していたと考えられています。すでに紀元前」4000年頃には、クレタ、キプロス、シリアでオリーブオイルが盛んに生産されていたことが史実として記録されています。
(オリーブ栽培地の中の史跡 ギリシャ本土)

古代人たちは、オリーブを食用に供するばかりでなく、果実から油を抽出し、さらに香草などにより香りをつけたオリーブオイルを神に捧げ、また体に塗って身体の保護や薬用にすることを早くから学んでいたのです。
現代のように地中海全域で栽培が盛んになったのは、紀元前3世紀、ローマ帝国の隆盛により食用、灯火、薬品、化粧品など都市生活のあらゆる面でオリーブオイルが使われてことによるものと考えられます。有力貴族たちは植民地に広大なオリーブ農園を経営しオイルをローマに運んだのです。 (ヒロ・コミュニケーションズ発行「私の時間」参照)
